うめの式

京都在住のワーキングマザーが綴る ミニマリズムな暮らしのこと

三十三間堂と養源院(御朱印集め)

2月3日は節分でしたね。

ちょうど友人が東京から遊びにきていたので、

お寺を回ってきました。

うめの式

こちら、超有名な三十三間堂です。

京都に来て半年以上経つのにまだ行ったことがありませんでした。

正式名は蓮華王院というそうです。

では「三十三」という数字はどこから来たのか・・・。

調べてみると、観音菩薩の変化身が三十三身であり、

また、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあることに由来するようです。

うめの式

ほんとうに南北に長いです。

撮影禁止のため中は写せませんでしたが、

中にはかの有名な千手観音座像と千体千手観音立像が安置されていました。

しかし、実際に千体の千手観音さまがいるわけではないようです。

昔の人にとって百を超える「千」という数字は

ものすごく多いことを示す数であり、

数えきれないほどの千手観音さまがいますよ、

ということを「千体」という言葉で表したようです。

うめの式

そんな三十三間堂の御朱印です。

「大悲殿」と書かれています。

「大」の寺がかっこいい!

大きな慈悲を持つ観音さまを奉るお堂ですよ、という意味だそうです。

大きな悲しみのお堂ではありません。

続いて三十三間堂の目の前にある養源院に行きました。

血天井で有名な養源院。

築城主である豊臣秀吉没後、伏見桃山城は

徳川家康から命じられ鳥居元忠とほか家臣らが守っていました。

しかし、石田三成の軍勢に攻められ、彼らは自害します。

その躯はすぐには弔われず、また季節も夏だったために

血やあぶらが床板にしみ込んでしまいました。

その床板を天井板として使用し供養しているお寺が

養源院や大原三千院などです。

ちなみに鳥居元忠は380名にものぼる家臣の介錯をしたあと、

最後に自害したそう・・・(どんな気持ちだったのかしら)。

養源院には鳥居元忠が倒れたあとがくっきり残っていました。

380人の中からどうしてその血のあとが鳥居元忠と分かったのか。

それは唯一「首」のある痕だったから。

最後に亡くなった鳥居元忠には介錯人がいなかったのです。

どれだけ苦しい思いをしたことでしょう。

わたしも静かに手を合わせました。

また、養源院は豊臣秀吉の側室・淀が父の浅井長政、祖父の浅井久政の

供養のために秀吉に願って創建したものなのですが、

徳川家に守られ、2代将軍の秀忠から15代将軍の慶喜までの

歴代将軍の位牌も安置されている奇妙なお寺です。

さらに伏見桃山城にあた石川五右衛門が捕まった間も

養源院に移され保存されています。

見所たっぷりの養源院、ぜひ行ってみてください。

(ただし、こちら管理されている方なのでしょうが、

 おばあさんに案内されたときは注意!

 位牌の安置されている間に通されたら一番前で座ってじっくり見ないと

 なぜか怒られます。怒られる意味も分からないけど、

 わたしはとても腹がたちました。これが京都のいけずなの?ぷんすか!)

さて、このあとお隣の法住寺ですてきな節分会を体験したのですが、

その話はまた次回!